動画内など、他所でラテシンの問題を扱う(転載など)際について
ウミガメのスープ 本家『ラテシン』 
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みんなのブックマーク

桃色な気持ち「1ブックマーク」
「ピンクで甘ったるいところが嫌い」
女は笑いを噛み殺して数え
男は死を覚悟した

一体何故だろう?
14年01月09日 11:42
【ウミガメのスープ】 [アマレット]

人工的な香りがたまらないw




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「ぱぱぁー、いちごぽっきーおいしいよ?たべう?」
「ごめんな、ピンクで甘ったるいから嫌いなんだよ」
「おいしいのにー!ぱぱのばかぁ!!」

ソファーで昼寝中のパパにそーっと近づく娘
一口食べたらきっとパパだって美味しいって言うよ
--パパは眉間に皺を寄せて苦い表情をしている(金縛り中)

半開きの口にポッキーを1本、2本・・・・
パパは微動だにしない
・・・49本、50本

楽しくなってきた娘は調子に乗って笑いを噛み殺しながら
パパの鼻にまでポッキーを詰め込みだす
パパの顔が紫に染まっていく
・・・60本、61本・・・

「キャー!!!何してんのっ!!!」
窒息寸前でママによって無事救出されたパパは
自分の軽率な発言を心底後悔したそうなw
【途方もない大和魂】「1ブックマーク」
週明け三銃士が逃亡した為、捜索する事になった。

『何処を捜すんだよ…』

『そりゃ隅々まで捜すしかないだろ…』

『隅々って…』

『俺のチョンチョンを真っ直ぐ繋ぎ合わせてお前の最後にするんだよ…』

『果てしないな…(´・_・`)』



“果てしない隅々”とは一体何だろう?

14年08月14日 20:37
【20の扉】 [のりっこ。]



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週明け三銃士【月】【火】【水】が逃亡した為、
【日】【木】【金】【土】で捜索する事になった。



【土】『何処を捜すんだよ…』

【日】『そりゃ隅々まで捜すしかないだろ…』

【木】『隅々って…』

【金】『俺のチョンチョンを真っ直ぐ繋ぎ合わせてお前(木)の最後にするんだよ…』



【日】【木】【金】【土】

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

【日】【本】【全】【土】



【日本全土】『果てしないな…(´・_・`)』

仕事で疲れて帰ってきた母がいつもカメオに食べさせてくれた思い出のウミガメの味噌煮。
カメオは、思い出のウミガメの味噌煮を再現すべく、ウミガメの味噌煮を作っていた。
しかし、何度も試行錯誤を繰り返したが、どうしても母の味を再現できない。

その後、カメオは思い出のウミガメの味噌煮を食べたが、亡くなってしまった。
一体どういう状況?
14年07月31日 23:55
【ウミガメのスープ】 [とーふ]

不慣れですが、宜しくお願いします




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カメオの乗った船で謎の爆発が起きた。

直径20m程の無人島で目覚めたカメオは一緒に落ちた近くの荷物を漁ると出てきたのがウミガメの味噌煮の缶詰。

カメオ「はは…まさかよりにもよって唯一の食糧がウミガメの味噌煮とはな」

子供の頃食べさせてもらったら思い出のウミガメの味噌煮。
母はカメオに決して作り方を教えてくれなかった。
作ってる間台所に近づく事すら禁止した。

(゚д゚)『いいのですか、カメオ?お母さんが料理中は台所に近づいてはいけないのですよ』
カメオ『うん!わかった!』
台所|<メキ!メコメコ!ゴリ!
カメオ『お、お母さん。明らかに料理作ってると思えない擬音するけど!』
(;゚д゚)『だ、大丈夫なのですよ!はい。大好物のウミガメ味噌煮なのです』

カメオ「あれこれ工夫してみたが結局あの味は再現できなかったな。しかし、缶詰めじゃ、味もたかが知れてるだろうが…」

カメオは一口食べて驚いた。
あの思い出のウミガメの味噌煮だったのである。
仕事で疲れた母は職場で作った缶詰めのウミガメの味噌煮を皿に盛りつけてカメオに出していたのだ。

最後の食事を取りながら、カメオは母が決して作り方を教えてくれなかった理由が漸く分かった。
のどかわいた・・・「1ブックマーク」

い日射しの下 マコは喉の渇きに堪えていた

しかしツォンと出会った事で喉の渇きを潤した

状況を説明して下さい

【参加テーマ・運命的な二人と言えば?】
14年07月25日 00:08
【ウミガメのスープ】 [アザゼル]



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天下に帰りのバスを待つマコ

喉が渇いたが現在の所持金はバス代のみ。ジュースを買えば家まで一時間近く歩かなければならない為 我慢した

ん?バス停の影に何かいる?犬?

首輪にカードが付いている 【名前はツォンです。誰か可愛がってあげて下さい】

捨て犬だ!誰がこんな可愛い犬を・・・

次の瞬間マコはツォンを飼う事を決意した

確か盲導犬等を除く場合バスに犬は乗れないんだったな・・・(勿論専用籠などは無い)

よし!マコはバス代で水を買い半分ほど飲むと残りをツォンにあげた。これでバスには乗れない

さあ歩くか!君と一緒なら千里の道も楽しいはず!
【祝R問題】9回目のお盆「1ブックマーク」
私が受験に合格しても、父は喜ばなかった。
父が喜ばない理由を説明すると、
私は悲しくなった。

なぜ父は喜ばず、なぜ私は悲しくなったのだろう?

※この問題はノックスRさんの「神様ヘルプ!」http://sui-hei.net/mondai/show/7535の外伝として作成したものです。
※※この問題のSP、とりわけ解説文の校正は、さしゃさんにしていただきました。
どうもありがとうございます。
14年07月17日 22:08
【ウミガメのスープ】 [3000才]



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お盆になると死んだ人の魂が舞いおりるらしい。
そんなこと信じているわけじゃないけど
仏壇の前、手を合わると、母のことを思い出す。

私の母は私が中学に入ってすぐに他界した。
死因は癌だった。
私は、幼稚園の年長の頃に数か月の間、
祖父母の元で暮らした記憶がある。
おそらくその時、母は最初の入院をしたのだと思う。
私の小学校入学前には退院し
それまでと同じように、私は母、父とともに一緒に過ごした。
そして、小学五年生の時に、母は再び入院した。

その頃私は中学受験をするため
毎日勉強をして過ごしていた。
週三回程度のペースで塾に通い
塾のない日は家で勉強していた。
勉強は嫌いだった。
勉強はさせられているものであり
させているのは親だと考えていたから
その点に関して親を恨んでいた。
それでもなにがなんだか分からないまま勉強していた。

母の入院。
その頃の記憶はあまり定かでない。
もしかしたらショックを受けたかもしれないが
中学受験に受かるために毎日は過ぎた。
母が家にいないのが普通になった。

小学六年の時、夏を越えたあたりに
母は退院し家に帰ってきた。
ずっと寝室にいたと思う。
私の受験の前、十二月に私は寝室に呼ばれた。
遺言だった。
こうありなさいよ、こう生きなさいよ
そんなことを言ったんだと思う。
内容はもう憶えていない。
母は死ぬんだという現実にさらされて
私はただただ泣き叫んでいた。
自分が死んだ後の話をする母。
私は涙が溢れて止まらなかった。
そうして母はまた入院した。

数ヶ月後、私は中学受験に合格した。
そのあとすぐ
四月に母はこの世を去った。

その日
家に帰ると母の危篤を聞いた。
病院に行くか?と父に尋ねられて
私は首を横に振った。
理由は運動をしてくたくただったからとかそんな理由で。
その日に母は死んだ。
母が死んでも涙は出てこなかった。

数日後の葬式で
木製の棺の中に母がいた。
葬式が終わると棺に釘を石で打ち込んだ。
私にも石が手渡された。
何回か打ち込んだ。
もし母が生きていても
釘を打ち込んだら出られなくなるなと思った。
関係者がひととおり打ち込んだ後
葬儀屋が手慣れた手つきで機械的に釘を打ち込んだ。

母がいない生活が再び始まった。
時々母がいないという事実を思い出すだけだった。
私に母がいないということを知った人が時々見せる態度も
かわいそうだねというような言葉も
どうとも思わなかった。

母の死後、数か月してから
父が私に言った言葉がある。

父は、私の中学受験合格を聞いた時、あまり喜んでくれていない気がした。
だから、なぜ喜んでくれないのかと尋ねた。
その時は、お茶を濁したような答えしかくれなかったのだが、
母の死後、数か月した最初のお盆を迎えたとき、父は私の問いに答えてくれた。

「母さんが命と引き換えに、お前を合格させてくれたと思ったからだよ」

ショックだった。
この言葉を聞いて、私は父が嫌いになった。
合格できたのは、私が嫌いな勉強を必死にやってきたからだ。
父がそういう風に思うのは勝手だけれど、そんな言い方をするなんて。
私が合格したせいで、母が死んだのだと、
父に突き付けられたような気がした。
私の努力など、微塵も認めてくれず、母の祈りだけが結果を導いたのだと。
親のくせに、私の気持ちを考えてもくれないなんて、と思った。

今思えば、私は、自分を認めてもらいたい気持ちでいっぱいなだけの
満ち足りない子供だったのだろう。
父の母への愛を理解するよりも、
ただ父の自分への愛を確かめたい子供だったのかもしれない。
思春期を迎える多くの子供がそうであるように
私も理由なく親を疎む人間だった。
そしてこの時の哀しみは立派な理由となり、疎む気持ちは更に強固になった。

私は、月並みな表現ではあるが、グレる、という行動に出た。
あまり品行方正でもなかったし、近所で悪い噂も立てられていたようだ。
特に何が楽しいわけでもなかったが、
何もしないよりも、少しは気分がましになった。

たぶん、あのままだったら、私はろくな人間にならなかっただろう。
救ってもらえたのは、私には私を心配してくれる友達がいたからだ。
今ではもうめったに会うこともないけど。
あの日、痛いくらいの強い力で私の腕を掴み
「もう止めよう?」と諭してくれた、悲しく苦しく優しい響きの声。
誰かの腕の中で、気が済むまで泣いた事なんて
母が私に何かを伝えてくれた日以来、初めての事だった。
小さな子供のようにしゃくりあげる私と手を繋いで
黙って歩いてくれた神社の境内の景色を、私は今も覚えている。
彼は、間違いなく、私の人生を救ってくれた。

それからだと思う。
私がいつも自分の身のまわりで支えてくれる友人、
そして、とりわけ、父を見るようになったのは。

時折、母の写真を手に、ぼんやりと庭を見つめる父の姿に、
歳を取ったな、と思う。
そうやって父は今も母に語りかけているのだろうか。
世間と比べ、決して長いとはいえなかった夫婦であっても、
いや、だからこそその絆には、子供ですら踏み込めはしないのかもしれない。
そう思った時、これまでの父へのわだかまりが、潮が引くように引いて行った。
たぶん、父にも、理由が必要だったのだ。
自分を保つために。

同時に
記憶の中にいるあの母が
あの手のひらが
あの声が
とっくに消えてしまっていて、この世の中にはもうないのだという事実が
今更のように私の心に染み込んでいった。

ふと思った。
父が愛した母はどんな人だったんだろう、と。
母が死んでから父に母のことを聞いて、初めて私は母のことを少しずつ知るようになった。
ビートルズが好きで初来日の時にコンサートを見に行ったとか。
服の趣味がいまひとつ良くなかったとか。
癌で死にゆく時に子供の未来を見つめたような人だったとか。

母が死んでから9年と少しが経った。
お盆になると、死んだ人の魂が舞いおりるらしい。
母が生きていた頃、中学受験をしていたあの頃よりもずっと、
母がそばにいるように思う。
もし母が生きていたら私は何を考えていただろう。
もし母が生きていて私の悩みを聞いてくれたならなんて言ってくれたのだろう。

母が死ぬ前に私に言った言葉は思い出せない。
思い出したいけど思い出せない。
でもこれだけは分かる。
母は40過ぎの若さで死にゆく時に子供を見つめた。
自分がこの世から消えてなくなる時に子供を見つめた。
そんな母のことを思うと
人は本当になにか素晴らしいことがらを
人に伝えるために産まれてきた気がしてくる。
母は死にゆく前に私になにかを伝えていった。
私はなにかを伝えながら生きようと思う。
死にゆく時には愛する人達を見つめて
なにか素晴らしいことを伝えていたいと思う。
母のように。