項目についての説明はラテシンwiki!
NEGOTIATOR(問題ページ)
立てこもり事件が発生。犯人は、「人質の少女に説得され、他の人質を解放した。だが、警察に突入されたことで気が動転し、思わず少女を拳銃で撃った」と証言した。
男に撃たれた少女は死んでいたが、男に殺人罪は適用されなかった。
どういうことだろう?
男に撃たれた少女は死んでいたが、男に殺人罪は適用されなかった。
どういうことだろう?
15年02月01日 23:44
【ウミガメのスープ】【批評OK】 [とかげ]
【ウミガメのスープ】【批評OK】 [とかげ]
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「騒いだら撃つぞ」
懐から拳銃をちらつかせて、男は凄んで見せた。しかし額には汗をかき、その拳銃を握る手も、小刻みに震えている。
それでも人質達を怖がらせるには十分だったようで、老若男女計五名は青白い顔で息を呑んだ。母親は状況のつかめていない幼い息子を強く抱き締め、若い女性は今にも泣き出しそうに両手で口元を覆う。老夫婦は互いを支える腕に一層力を込めた。
その様子に満足して、男は拳銃に手を掛けたまま、舐めるように一人一人の表情を眺める。それが更に彼らの恐怖を煽り立てることを知っている。
そして、部屋の隅に視点を合わせて止まった。
「おい、お前」
無理に太い声を出そうとしているらしい。随分としゃべりにくそうだ。
「そこのお前だよ、返事くらいしろ」
誰も答えない。不審に思って部屋を見回し、それからようやく気付く。
男が声を掛けているのは、他でもない、六人目の人質である、私のようだ。
「お前を解放することにする。外にいるマスコミに、人質を返して欲しければ一千万用意しろと伝えろ」
真っ黒なサングラス越しに睨まれた。悪いけど、似合ってない。
「他の奴らは動くんじゃねえぞ」
残りの人質達は言われなくても固まっている。当然のことながら、男の気に障るようなことはしたくないのだろう。
しかし、男はこの状況だからこそ危険人物に見えるが、こういう類のことに慣れていないのは明らかだ。計画性も見えないし、咄嗟の犯行だろう。そして人質の中には、自分から男に話しかけるような気丈な人も、ましてや力ずくで犯人逮捕に貢献しようなんていう無謀な人もいないようだ。
うん、大丈夫。これはうまくいきそうだ。
私はできる限り人の良さそうな笑顔を浮かべてみた。ただしあまり悠々としていてはいけない。あくまで私は人質役なのだから。
「おじさん、ちょっといい?」
馴れ馴れしく呼ばれたことも特に気にせず、男は振り返った。
「ああ?」
「耳貸して」
素直に近付いてきた男に、そっと耳打ちする。
「あのさ、一応私にも世間体ってもんがあるの。わかる?」
「え? あ、ああ」
男も私にしか聞こえないくらいの小声で相槌を打つ。
「私が解放されて、その後おじさんがみんなを殺しちゃったとするでしょ? つまり私だけが助かるっていう」
「……まぁ、そういう場合もあるな」
「それが困るのよー。ほら、小さい子がいるでしょ?」
先ほどから落ち着かない様子で母親に抱き締められている六歳くらいの男の子に視線をやる。
「あの子の方が私よりも若いじゃない? ここで私が助かってあの子が死んじゃったらまずいでしょ、やっぱ」
私の説明に納得したらしく、男はなるほどと頷いた。話がわかり過ぎる立てこもり犯だ。
「それよりも、私があの子に解放される権利を譲ったって方がかっこいいじゃない。おじさんだって、子どもを傷つけたら恨みも倍増よ?」
「それもそうだな……」
いい感じに話がまとまりかけたところで、はっと気付いたように男は顔を上げた。
「だが、あんな子どもに任せられるか? ちゃんと俺の要求を――」
「お母さんも一緒に解放しちゃえばいいのよ。他にも人質いるから問題ないし、要求は母親の方に言わせればオッケー。親子を別々にしたら非道な人間だって思われるだろうし」
「そうか、よしそれで行こう!」
「あとさ、一千万なんて安いよ。どうせならもっと大きいこと言おうよ」
「お、俺もそう思ってたところだ」
男は値段を一億円につり上げ、ついでに衆議院を解散しろという要求を付け加えた。特に意味はなく、ただの思いつきらしい。
「そこの親子! 解放するのはお前らにするぞ。いいか、マスコミに……」
母親は突然の展開に混乱しながらも、男の機嫌を損ねないよう素直に頷き、息子を抱き上げてドアに向かう。それでも、残される人質を心配してか、何度となく振り返る。
「ほら行け! 余計なことはしゃべるんじゃないぞ!」
いい加減苛立ってきた男は、拳銃を突き付けて親子を部屋から追い出した。慌てて廊下を駆けて行くのを見送ってから、ドアを閉める。
不機嫌そうな顔をした男は、人質達と向かい合う形で一人掛けのソファに身を沈めた。彼がしきりに足を組み替え、自分の指をそわそわと動かしている様子に、他の人質達はまだ男が苛立っているのだとでも思うだろう。実際はおそらく、身代金まで求めてもう後にはひけなくなったことに落ち着かない、といったところか。
人質は、残り四人。何はともあれ、周囲の状況を知る必要がある。きっともうニュース速報でも流れているだろう。
「ねぇ、おじさん、テレビつけないの?」
男の座るソファの側には、ちょうどテレビがある。
「なんでだ」
「あの親子がちゃんとおじさんの要求を伝えたか、確かめなきゃ」
「あぁ、そうか」
慌ててテレビのスイッチを入れると、画面いっぱいに今私達がいる家が映し出される。女子アナがマイクを握って事件の発端から説明しているところだった。
本日十三時ごろ、拳銃を所持した男が都内の民営バスをバスジャックしました。住宅街を走るバスを不審に思った目撃者が通報し、事件が発覚。男の身元は不明です。男はバスを途中で降り、乗客の中から数名の女性や子どもを連れ、付近の住宅に侵入し、立てこもりました。住宅の住民も男の人質となった模様です。人質の人数、犯行目的などは不明です。一部の犯罪心理学者は、男が何らかの政治的欲求を持って今回の事件を起こしたのではないかと見ています――
と、突如画面が切り替わった。
『親子が解放された模様です!』
さっきの親子が玄関から出てくる様子だった。フラッシュがあちこちから光る。母親は、突き付けられるマイクに向かって何やらしゃべっている。
『犯人からの要求があったようです。身代金を一億円、それと……衆議院解散を要求しています』
湧き上がる報道陣を押し退けて、警官や救急隊員が親子を救急車へ誘導する。髪型が乱れてしまったアナウンサーは続ける。
『解放された親子に目立った外傷は見当たりません。しかし母親の方はぐったりと……えー青白い顔です。中では一体何が起こっているのでしょうか』
走り去る救急車を映してから、画面はスタジオへ。
『建物内にはまだ人質が残っていると考えられます。電話等を使わず人質を解放して要求を伝えるというやり方、受け渡し方法や期限を決めずに請求する一億円、そして衆議院解散。何か計り知れないものを感じます。小杉さん、その辺りはいかがでしょうか』
『はい。まず、犯人は我々マスコミを含め、社会に混乱を招こうとしていると思います。こう曖昧な要求では、警察も動きづらい。男の身元も、目的も不明確ですし、テロの前兆なのか、共犯はいるのか、といった疑問もあります』
『なるほど。社会全体への反抗ということでしょうか』
『ええ、その可能性は十分にあります。政治的要素を出してきたことからも、政府に何らかの不満があると推測できます』
今度は本棚をバックにしたおじいさんの映像が映し出される。何処かの偉い先生らしい。
『これまでの犯行を見ると、犯人はとても知能が高い人間だとわかります。そして計画的です。乗客の少ない路線のバスを狙い、60代の夫婦が住む家をその後の立てこもり場所に選んだ。咄嗟の犯行とは思えません』
たった一人のおじさんが、おそらくは思いつきで行動しているのに、テレビではあっという間に知的な犯人像ができあがっている。
真面目に解説を始めるから思わず吹き出しそうになった。が、男はニュースに見入っているので、そして更にちょっと嬉しそうなので、抑えておいた。
どのチャンネルでもこの事件の話題で持ちきりだ。親子は無事保護され、外傷はないものの母親の方は精神的に参っているそうだ。「余計なことは言うな」という男の牽制が効いたのだろう、人質の人数や男の現在地など、当然聞かれているだろうことがニュースでは流れない。おそらく警察内だけで情報がストップしているのだ。
ひとしきりテレビをザッピングして、男も上機嫌になった頃、うつむき加減でずっと押し黙っていたOL風のお姉さんが、肩を震わせてすすり泣いているのに気付いた。テレビの音にかき消される程度の小さな嗚咽。
「……ちょっとおじさん、泣いてるよ?」
「あん?」
男もようやくニュースから視線を外し、お姉さんを見る。そして動揺する。
「泣かないで、ほら、怖くないからね」
老夫婦の奥さんの方が、たまりかねてお姉さんの肩に手を置き、落ち着かせようとする。散々騒ぐな動くなと命令していた男だが、それを見ても注意しようとはしない。むしろぜひ彼女の涙を止めてくれとでも思っているのだろう。
「……どうした」
ぶっきらぼうな物言いは、怒っているのではなく、困っているからだ。
「わ、私……明日、結婚式、なんです……」
切れ切れにそう答えると、さっきよりも大きな声で泣き出した。それでも喉をひくつかせながら続ける。
「ようやく、親を、説得して……明日、なのに」
お婆さんは優しくその背中を撫でてあげている。
「私、ここで、死んじゃう、んですか……?」
かわいそうに、とお爺さんも目を伏せる。元凶である男は、決まり悪そうに視線を泳がせるばかり。
これは――いける。
独り言のように、けれど男にはよく聴こえる大きさで、呟く。
「結婚って、私にはまだよくわからないな」
期待通り、男は私へ視線を向けた。その様子に満足しつつ、でも、と続ける。
「これからずっと一緒に生きていくって決めるのは、そう簡単なことじゃないよね」
お姉さんは嗚咽の合間に時折「明日」とか「茂さん」とかいう単語を口に出して、当分泣き止みそうにない気配だ。今までこらえていたものが、我慢できなくなってしまったのだろう。
男はふと、お姉さんに優しく声をかける老夫婦を見やり、それから軽くうつむく。
「どうすればいいって言うんだ……」
消え入るような小声。男は焦っている。
「そうね……例えば、お姉さんも、解放してあげるとか」
あえて軽く、なんとなく思いついただけという風に、男にそう提案してみた。
「な――」
男は思わず顔を上げ、眉をひそめる。さすがにこのくらいで男が折れるとは思えない。泣いている人質は邪魔なだけ、お姉さんを利用してもう少し無理な要求をふっかけてみるのもいい、余計なことを喋れば老夫婦はただじゃおかないとか脅しておけば問題ないし……
そう、言おうとして口を開きかけたが、私の言葉より男の決断の方が早かった。
すっとソファから立ち上がり、お姉さんに近づく。びくっとお姉さんの身体が縮こまる。
「そこの女、立て」
唐突な命令に、震えながらもなんとか従う。ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
「行け」
「……え?」
「行けって言ってんだよ! 早くここから出て行け!」
怒鳴り散らすと、乱暴にドアを開け、お姉さんの腕を引っ張った。彼女は驚きのあまり抵抗することも恐れることも忘れて、あっという間に部屋の外へ放り出される。
「撃たれたくなかったらさっさと行けえっ!」
「あ、あっ……」
言葉になっていない声に、パタパタと駆ける足音が続く。男はわざと音を立ててドアを閉め、呆気にとられる老夫婦を無視してまたソファにどかりと腰を下ろす。何事もなかったかのように振舞いたいのだろうが、頬が少し上気している。
「おじさん、結構いいとこあるね」
「うるせぇぞ」
それから弁明するかのようにぼそっと呟く。
「俺も、相手の家に頼み込んでやっと結婚したんだよ」
昔を懐かしむような遠い目をして、厚いカーテンで覆われた窓に目を向ける。
「奥さんいるの?」
「とうに逃げられたけどな」
ちらりと老夫婦を横目で見る。寄り添う二人は、静かに自分達の運命を待っている。
男の目は心なしか、羨望の色を含んでいるように思えた。
『あ、また一人、今度は若い女性が出てきました! ご家族でしょうか、男性が駆け寄っています!』
付けっ放しだったテレビから、アナウンサーの声が届く。カメラはあのOL風のお姉さんと、彼女を抱きかかえる若い男をとらえた。おそらく、婚約者の茂さんとやらだろう。
「おじさん、ほんと良いことしたよ」
素直に感想を述べると、男は少し照れたような表情を浮かべ、それからすぐにそれを隠そうとしかめっ面をした。
予想以上にいい人だ。これなら、残りもなんとかなるはず。この老夫婦、何が何でも助けたい。
「おじさんは、これからどうするの?」
テレビをただ眺める男に、素朴な疑問を装い、話かける。
「衆議院はどうでもいいとして、一億円貰ったら」
ワンテンポ遅れて、男は視線を動かさずに答える。
「そりゃあ逃げるさ。高飛びってのもいいな。海外行ったことないんだ」
ならば、パスポートも持っていないはずだ。おそらくそれは無理な願いだ。と、心の中だけでこっそり思う。
「簡単に逃げられると思う? 周りマスコミと警官だらけだよ?」
「それなら人質を連れて行けばいい」
期待通りの答え。すぐさま食いつきたい衝動をこらえ、わざと間をとる。
「じゃあ……人質、三人もいらなくない?」
これが今回の作戦だ。
「たくさんいればいるほど、足手まといになるだけだし」
「ああ」
「一人いれば十分なんじゃない?」
男は口をつぐんだ。まずい。ちょっとわざとらしかったかもしれない。けれど。
「俺も、そう思っていたところだ」
「え――?」
意味深な言葉の後、男はまたソファから立ち上がった。今までで一番表情のない顔。それから、床に座り込む老夫婦を見下ろす形で近付く。
男のはいているジーンズがこすれる音と、夫婦が一層怯えて思わず漏らす声。
人質を連れ歩くなら、足腰の弱い老人は向かない。当然、一人いれば十分な人質には、私がなるつもりだが……
懐から拳銃を取り出し、男は老夫婦を見下ろした。
ちょっと待って。まさか、必要ないから、殺す、とか――!
「お前らも行けよ」
そのセリフに、私も老夫婦も呆気にとられた。本当にぽかんと口を開けているお婆さん。お爺さんが念のため確認する。
「……いいんですか?」
「いいから早く行け」
拳銃を突き付けてはいるが、それはどう見てもポーズだ。男はまだ震えている二人を半ば追いやるように部屋から出した。二人がいなくなると、身体の全てを預けるように、男は壁に背をもたれて床に座り込んだ。
「悪いな、お前を残して」
「いいのよ、そんなことは」
もう悪事を働く気は失せたのか、男は虚ろな目で天井を見上げている。部屋に残っているのは犯人と、私だけ。
助けるのはあと一人。
それは私自身ではない。
「ね、一つ訊きたいんだけど」
男は黙っていたが、それを肯定の意味と取る。
「おじさんはどうしてこんな事件を起こそうと思ったの?」
「そんなことか」
投げやりに返事をして、一瞬遠くを見つめ、それから私の方へ向き直る。
「俺はな、ガキの頃から要領が悪くて、よくいじめられたし年下からも馬鹿にされてた。高校出てなんとか就職したが、そこでも上司に怒鳴られてばかり」
自分をさげすむように鼻で笑ってから続ける。
「結局リストラされて、頼りねぇ俺に愛想つかした嫁は他の男とどっか行っちまった。やけになって手をつけた株は買った途端大暴落、とうとう借金は一千万。死んでもいいと思ったが、どうせ死ぬなら世間をあっと言わせてから死にてぇと思った」
「おじさんいくつ?」
「四十六だ」
「え? まだ十分若いじゃん!」
私は男の隣にしゃがみ、顔を覗き込むようにしてにらみつけた。
「あのねぇ、おじさんの年齢でもう人生終わったみたいなこと言う必要ないでしょう。やり直し効くじゃん。奥さんだって仕事だって、また見つければいいでしょ」
「十代のお前に何がわかるんだよ」
「おじさんはそうやって逃げてるだけだよ。今ならまだなんとかなるよ!」
「けど――」
男は何か言いかけて、それから口をつぐむ。
少し言い過ぎたかなとも思ったが、彼はそのまま自分に言い聞かせるように頷きながら呟いた。
「そうか……まだ、なんとかなるのか」
「なるなる。超余裕」
「今から自首すれば……」
「まだ誰も傷つけてないし、おじさんの刑も軽くなるよ」
何か考え込むように腕を組む。数秒沈黙が続き、それから思い切ったように顔を上げ、拳を握った。
「よし……俺は自首する」
「いいね! おじさん偉いよ!」
決意の表情に偽りはなさそうだ。
「ところで、お前の名前は?」
唐突な質問。
「私? スズキミホよ」
「ミホちゃん、ありがとう。俺はなんだかこれからうまくやっていけそうな気がする」
馴れ馴れしく呼ばれたこともいきなり両肩をつかまれたことも、気分を削いでしまうのは避けたいので不問にしておく。愛想笑いで受け流した。
そのとき。
『――こちら現場です。先ほどこの家の住人である夫婦が解放されました! これから警察が犯人逮捕のために突入するということです!』
何の前触れもなく流れたアナウンサーの声に、二人して固まる。男は私の肩から手を離し、代わりにテレビを両側からつかんで画面を凝視する。確かに警察が十数名、この家を取り囲んでいる様子が映し出されている。
「ど……どういうことだ……!」
呆然とする男をよそに、突入の実況中継は続く。
「まだ人質は一人残ってるだろうが! 何考えてんだ警察は!」
しまった。男は見る見るうちに焦燥と怒りを瞳に浮かべた。
「おじさん、自首するんじゃないの?」
「うるさい!」
さっきの希望に満ちた表情は何処へやら、実際に捕まるとなると怖くなったようだ。銃口を私に向け、外の気配を探る。どうやらまだ中までは入ってきていない。
「畜生……こうなったらやっぱりお前を人質にして」
「素直に自首すれば済む話なのに」
投げやりな物言いに聞こえてしまったのかもしれない、男は怒りを露に拳銃を握りなおす。その距離約一メートル。
「次しゃべったら本当に撃つぞ」
サングラスはずり落ちて、血走った片目が覗いた。
「おじさんは私を殺せるような人じゃないよ」
「お前も俺を馬鹿にする気か!」
そんな非道な人間ではない、という意味で言ったのだが、どうやらそんなこともできない臆病者だ、とでも解釈したのだろう。拳銃を持つ手が震えて、カタカタ音が鳴る。
ああダメだ。
この人はもう、私の言葉なんかに耳を貸さない。残念ながら、気弱で人の良いおじさんには戻せない。
私の失敗だろうか。そうかもしれない。申し訳ない。
「俺なんかには撃てないとでも思ってるんだろうが!」
私が助けたかったのは私自身ではなく。
「どいつもこいつも俺を見下しやがって!」
この、本当は気の優しい犯人だったのに。
「そういうわけじゃない!」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇ!」
小刻みに揺れる拳銃は私の心臓に狙いを定めた。いくら射撃の経験がなくたって、これだけ近距離なら身体の何処かしらには当たるだろう。
「おじさん、私は――」
「黙れって言ってるだろ! なんだその目は! ふざけんな!」
慣れない手つきで撃鉄を引き起こす。ガシャン、とどこかで窓ガラスが割れる音がした。それからドアを蹴破る音も。それらが拍車をかけ、男は更に興奮して引き金に指をかける。
「畜生――」
固く目をつむり、歯を食いしばる様は、どうしてもやっぱり滑稽で。
似合わないよ、おじさん。
心の中だけで呟く。あとは、彼が指に力を込めるだけ。
私は、逃げない。
――銃声。
心臓からは大きく外れて、左太ももの辺りを貫通した。撃った反動に驚きながらも、続けてもう一発。今度は右肩に。
男はまぶたを閉じたまま私に向かって撃ち続けた。音を聞きつけて、警察の足音がこちらの部屋へ向かってくる。
最後の銃弾がようやく左胸にあたった。と同時に、ドアが勢い良く開く。警察がなだれ込む。
狂ったように、もう弾の残っていない銃の引き金を引き続ける男は、すぐに取り押さえられた。銃を奪われ手錠を掛けられてもなお、彼は銃を撃つ動作をやめなかった。
私はそんなおじさんにちょっと同情して、それから事件が終わりを迎えようとしていることに安心して――そっと、笑った。
「『調べ学習』は終わったか?」
縦にも横にも大柄な男が、にやにや笑いながらコーヒーの入ったシンプルなマグカップを差し出す。聞かれた青年は、書類から目を離して不機嫌そうな顔を寄越した。
「松川さんって僕を中学生とでも思ってるんですか……あぁ、ありがとうございます。終わりましたよ」
受け取ったコーヒーに口をつけながら、机の上にちらばる資料の一つを手に取った。松川と呼ばれた大柄な男も、似合わないキャラクターものがプリントされたマグカップからちびちびとコーヒーを飲んでいる。
「犯人は前科なし、聞き込みもしましたが地味で目立たず至って平凡な人物。奥さんとは一年前に離婚、子どもはいません。十ヶ月前に退職していますが、おそらくリストラでしょう。それから――」
今度は先ほど見ていた書類に目を向ける。
「警察から発表された、六人目の人質についてですが。人質五人を解放したあと、ニュースで警察に突入されることを知って動転し、思わず最後の人質に全弾発砲したとのこと。銃はリボルバーのコルト・キングコブラ、装弾数は六発です。しかし」
「六人目の人質は存在しない」
青年の言葉を引き継いで、松川は続けた。
「はい、他の人質の証言によると、家に立てこもってから急に態度がおかしくなり、独り言が増えたり理由もなく人質を解放したりし始めたとのことです。人質の人数は五人。三十代の女性とその五歳の息子、二十代の女性、それから家主の六十代の夫婦です」
書類をめくり、次のページに目を走らせる。
「親子は犯人の要求を伝えるために解放。しかし、二十代の女性は結婚式前日だという理由で、夫婦にいたっては何の理由もなく解放です。一応被害者も調べてみましたが、目を引くのは親子の遠縁に業過致死で服役中のものがいること、夫婦の娘がだいぶ前に失踪していること、くらいですね。事件とは関係ないでしょう」
一息ついて、青年は残りのコーヒーを煽るように飲み干した。
「まぁ、なかなかだな。Bをやろう」
にやにや笑いを浮かべながら、松川は青年の集めた資料を読み流す。
「ヤクもやってないようだし、人質の証言から考えても、精神科行きだ。離婚、リストラ、冴えない自分に絶望した結果の心の病、とでもまとめておけばいいだろう」
その線で記事にしろ、という松川に、青年は頷く。
若い雑誌の記者にこういった指導係がつくのが普通なのか、それとも単に松川の面倒見がいいだけなのかはわからない。どちらにしろ、青年が松川を指導者として信頼しているのは間違いないようだ。
「さて、俺も業務終了だ、メシでも行くか」
資料を集めてファイリングしている青年の肩を、大きな手で叩く。重量のせいか、本人は軽く叩いたつもりでも、青年の方は痛そうに小さな悲鳴を上げた。
「今日は何処に連れて行ってくれるんですか?」
肩をさすりながら、青年は自分より一回りも二回りも大きな松川の後について部屋を出た。
私は、二人が完全にいなくなり、周りの人間が主のいなくなったデスクに全く注目していないことを確認してから、机の棚から先ほどのファイルを引っ張り出した。机の引き出しを背にしゃがみこむ。
さっきから二人のすぐ側にいた。全てのやりとりを聞いていた。彼らが気付かなかっただけで。
資料をパラパラとめくる。二人の記者の話によれば、犯人の結末はあまり嬉しくないものだった。私のことは勘違いだったと思い込んで欲しいが、あのときの状況を考えると難しいだろう。
ふと、一枚の書類に目がとまる。人質となっていた老夫婦に関するものだ。家の所在地とその周辺地図、夫婦それぞれの経歴、事情聴取の内容、それから。
いつの間にか、こんなに時間が過ぎていた。
もう三十年前の新聞記事のコピー。
今月四日、都内の私立高校に通う鈴木美保さん(16)が、「図書館へ行く」と家を出たきり消息を絶った。近隣でも家族仲が良いことで知られており、家族や友人とも特に衝突などはなかったようだ。家出とは考えにくいため、警察は何らかの事件に巻き込まれたものとして捜索を続けている。
今の私と寸分違わぬ小さな顔写真が、その記事の右側に載っていた。
お父さんお母さんには、まだまだ長生きして欲しい。
END
少女は幽霊で、犯人の男にしか見えていなかった。男は少女を撃ったが、少女は既に死んでいるので、殺人の罪にはならなかった。
懐から拳銃をちらつかせて、男は凄んで見せた。しかし額には汗をかき、その拳銃を握る手も、小刻みに震えている。
それでも人質達を怖がらせるには十分だったようで、老若男女計五名は青白い顔で息を呑んだ。母親は状況のつかめていない幼い息子を強く抱き締め、若い女性は今にも泣き出しそうに両手で口元を覆う。老夫婦は互いを支える腕に一層力を込めた。
その様子に満足して、男は拳銃に手を掛けたまま、舐めるように一人一人の表情を眺める。それが更に彼らの恐怖を煽り立てることを知っている。
そして、部屋の隅に視点を合わせて止まった。
「おい、お前」
無理に太い声を出そうとしているらしい。随分としゃべりにくそうだ。
「そこのお前だよ、返事くらいしろ」
誰も答えない。不審に思って部屋を見回し、それからようやく気付く。
男が声を掛けているのは、他でもない、六人目の人質である、私のようだ。
「お前を解放することにする。外にいるマスコミに、人質を返して欲しければ一千万用意しろと伝えろ」
真っ黒なサングラス越しに睨まれた。悪いけど、似合ってない。
「他の奴らは動くんじゃねえぞ」
残りの人質達は言われなくても固まっている。当然のことながら、男の気に障るようなことはしたくないのだろう。
しかし、男はこの状況だからこそ危険人物に見えるが、こういう類のことに慣れていないのは明らかだ。計画性も見えないし、咄嗟の犯行だろう。そして人質の中には、自分から男に話しかけるような気丈な人も、ましてや力ずくで犯人逮捕に貢献しようなんていう無謀な人もいないようだ。
うん、大丈夫。これはうまくいきそうだ。
私はできる限り人の良さそうな笑顔を浮かべてみた。ただしあまり悠々としていてはいけない。あくまで私は人質役なのだから。
「おじさん、ちょっといい?」
馴れ馴れしく呼ばれたことも特に気にせず、男は振り返った。
「ああ?」
「耳貸して」
素直に近付いてきた男に、そっと耳打ちする。
「あのさ、一応私にも世間体ってもんがあるの。わかる?」
「え? あ、ああ」
男も私にしか聞こえないくらいの小声で相槌を打つ。
「私が解放されて、その後おじさんがみんなを殺しちゃったとするでしょ? つまり私だけが助かるっていう」
「……まぁ、そういう場合もあるな」
「それが困るのよー。ほら、小さい子がいるでしょ?」
先ほどから落ち着かない様子で母親に抱き締められている六歳くらいの男の子に視線をやる。
「あの子の方が私よりも若いじゃない? ここで私が助かってあの子が死んじゃったらまずいでしょ、やっぱ」
私の説明に納得したらしく、男はなるほどと頷いた。話がわかり過ぎる立てこもり犯だ。
「それよりも、私があの子に解放される権利を譲ったって方がかっこいいじゃない。おじさんだって、子どもを傷つけたら恨みも倍増よ?」
「それもそうだな……」
いい感じに話がまとまりかけたところで、はっと気付いたように男は顔を上げた。
「だが、あんな子どもに任せられるか? ちゃんと俺の要求を――」
「お母さんも一緒に解放しちゃえばいいのよ。他にも人質いるから問題ないし、要求は母親の方に言わせればオッケー。親子を別々にしたら非道な人間だって思われるだろうし」
「そうか、よしそれで行こう!」
「あとさ、一千万なんて安いよ。どうせならもっと大きいこと言おうよ」
「お、俺もそう思ってたところだ」
男は値段を一億円につり上げ、ついでに衆議院を解散しろという要求を付け加えた。特に意味はなく、ただの思いつきらしい。
「そこの親子! 解放するのはお前らにするぞ。いいか、マスコミに……」
母親は突然の展開に混乱しながらも、男の機嫌を損ねないよう素直に頷き、息子を抱き上げてドアに向かう。それでも、残される人質を心配してか、何度となく振り返る。
「ほら行け! 余計なことはしゃべるんじゃないぞ!」
いい加減苛立ってきた男は、拳銃を突き付けて親子を部屋から追い出した。慌てて廊下を駆けて行くのを見送ってから、ドアを閉める。
不機嫌そうな顔をした男は、人質達と向かい合う形で一人掛けのソファに身を沈めた。彼がしきりに足を組み替え、自分の指をそわそわと動かしている様子に、他の人質達はまだ男が苛立っているのだとでも思うだろう。実際はおそらく、身代金まで求めてもう後にはひけなくなったことに落ち着かない、といったところか。
人質は、残り四人。何はともあれ、周囲の状況を知る必要がある。きっともうニュース速報でも流れているだろう。
「ねぇ、おじさん、テレビつけないの?」
男の座るソファの側には、ちょうどテレビがある。
「なんでだ」
「あの親子がちゃんとおじさんの要求を伝えたか、確かめなきゃ」
「あぁ、そうか」
慌ててテレビのスイッチを入れると、画面いっぱいに今私達がいる家が映し出される。女子アナがマイクを握って事件の発端から説明しているところだった。
本日十三時ごろ、拳銃を所持した男が都内の民営バスをバスジャックしました。住宅街を走るバスを不審に思った目撃者が通報し、事件が発覚。男の身元は不明です。男はバスを途中で降り、乗客の中から数名の女性や子どもを連れ、付近の住宅に侵入し、立てこもりました。住宅の住民も男の人質となった模様です。人質の人数、犯行目的などは不明です。一部の犯罪心理学者は、男が何らかの政治的欲求を持って今回の事件を起こしたのではないかと見ています――
と、突如画面が切り替わった。
『親子が解放された模様です!』
さっきの親子が玄関から出てくる様子だった。フラッシュがあちこちから光る。母親は、突き付けられるマイクに向かって何やらしゃべっている。
『犯人からの要求があったようです。身代金を一億円、それと……衆議院解散を要求しています』
湧き上がる報道陣を押し退けて、警官や救急隊員が親子を救急車へ誘導する。髪型が乱れてしまったアナウンサーは続ける。
『解放された親子に目立った外傷は見当たりません。しかし母親の方はぐったりと……えー青白い顔です。中では一体何が起こっているのでしょうか』
走り去る救急車を映してから、画面はスタジオへ。
『建物内にはまだ人質が残っていると考えられます。電話等を使わず人質を解放して要求を伝えるというやり方、受け渡し方法や期限を決めずに請求する一億円、そして衆議院解散。何か計り知れないものを感じます。小杉さん、その辺りはいかがでしょうか』
『はい。まず、犯人は我々マスコミを含め、社会に混乱を招こうとしていると思います。こう曖昧な要求では、警察も動きづらい。男の身元も、目的も不明確ですし、テロの前兆なのか、共犯はいるのか、といった疑問もあります』
『なるほど。社会全体への反抗ということでしょうか』
『ええ、その可能性は十分にあります。政治的要素を出してきたことからも、政府に何らかの不満があると推測できます』
今度は本棚をバックにしたおじいさんの映像が映し出される。何処かの偉い先生らしい。
『これまでの犯行を見ると、犯人はとても知能が高い人間だとわかります。そして計画的です。乗客の少ない路線のバスを狙い、60代の夫婦が住む家をその後の立てこもり場所に選んだ。咄嗟の犯行とは思えません』
たった一人のおじさんが、おそらくは思いつきで行動しているのに、テレビではあっという間に知的な犯人像ができあがっている。
真面目に解説を始めるから思わず吹き出しそうになった。が、男はニュースに見入っているので、そして更にちょっと嬉しそうなので、抑えておいた。
どのチャンネルでもこの事件の話題で持ちきりだ。親子は無事保護され、外傷はないものの母親の方は精神的に参っているそうだ。「余計なことは言うな」という男の牽制が効いたのだろう、人質の人数や男の現在地など、当然聞かれているだろうことがニュースでは流れない。おそらく警察内だけで情報がストップしているのだ。
ひとしきりテレビをザッピングして、男も上機嫌になった頃、うつむき加減でずっと押し黙っていたOL風のお姉さんが、肩を震わせてすすり泣いているのに気付いた。テレビの音にかき消される程度の小さな嗚咽。
「……ちょっとおじさん、泣いてるよ?」
「あん?」
男もようやくニュースから視線を外し、お姉さんを見る。そして動揺する。
「泣かないで、ほら、怖くないからね」
老夫婦の奥さんの方が、たまりかねてお姉さんの肩に手を置き、落ち着かせようとする。散々騒ぐな動くなと命令していた男だが、それを見ても注意しようとはしない。むしろぜひ彼女の涙を止めてくれとでも思っているのだろう。
「……どうした」
ぶっきらぼうな物言いは、怒っているのではなく、困っているからだ。
「わ、私……明日、結婚式、なんです……」
切れ切れにそう答えると、さっきよりも大きな声で泣き出した。それでも喉をひくつかせながら続ける。
「ようやく、親を、説得して……明日、なのに」
お婆さんは優しくその背中を撫でてあげている。
「私、ここで、死んじゃう、んですか……?」
かわいそうに、とお爺さんも目を伏せる。元凶である男は、決まり悪そうに視線を泳がせるばかり。
これは――いける。
独り言のように、けれど男にはよく聴こえる大きさで、呟く。
「結婚って、私にはまだよくわからないな」
期待通り、男は私へ視線を向けた。その様子に満足しつつ、でも、と続ける。
「これからずっと一緒に生きていくって決めるのは、そう簡単なことじゃないよね」
お姉さんは嗚咽の合間に時折「明日」とか「茂さん」とかいう単語を口に出して、当分泣き止みそうにない気配だ。今までこらえていたものが、我慢できなくなってしまったのだろう。
男はふと、お姉さんに優しく声をかける老夫婦を見やり、それから軽くうつむく。
「どうすればいいって言うんだ……」
消え入るような小声。男は焦っている。
「そうね……例えば、お姉さんも、解放してあげるとか」
あえて軽く、なんとなく思いついただけという風に、男にそう提案してみた。
「な――」
男は思わず顔を上げ、眉をひそめる。さすがにこのくらいで男が折れるとは思えない。泣いている人質は邪魔なだけ、お姉さんを利用してもう少し無理な要求をふっかけてみるのもいい、余計なことを喋れば老夫婦はただじゃおかないとか脅しておけば問題ないし……
そう、言おうとして口を開きかけたが、私の言葉より男の決断の方が早かった。
すっとソファから立ち上がり、お姉さんに近づく。びくっとお姉さんの身体が縮こまる。
「そこの女、立て」
唐突な命令に、震えながらもなんとか従う。ボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
「行け」
「……え?」
「行けって言ってんだよ! 早くここから出て行け!」
怒鳴り散らすと、乱暴にドアを開け、お姉さんの腕を引っ張った。彼女は驚きのあまり抵抗することも恐れることも忘れて、あっという間に部屋の外へ放り出される。
「撃たれたくなかったらさっさと行けえっ!」
「あ、あっ……」
言葉になっていない声に、パタパタと駆ける足音が続く。男はわざと音を立ててドアを閉め、呆気にとられる老夫婦を無視してまたソファにどかりと腰を下ろす。何事もなかったかのように振舞いたいのだろうが、頬が少し上気している。
「おじさん、結構いいとこあるね」
「うるせぇぞ」
それから弁明するかのようにぼそっと呟く。
「俺も、相手の家に頼み込んでやっと結婚したんだよ」
昔を懐かしむような遠い目をして、厚いカーテンで覆われた窓に目を向ける。
「奥さんいるの?」
「とうに逃げられたけどな」
ちらりと老夫婦を横目で見る。寄り添う二人は、静かに自分達の運命を待っている。
男の目は心なしか、羨望の色を含んでいるように思えた。
『あ、また一人、今度は若い女性が出てきました! ご家族でしょうか、男性が駆け寄っています!』
付けっ放しだったテレビから、アナウンサーの声が届く。カメラはあのOL風のお姉さんと、彼女を抱きかかえる若い男をとらえた。おそらく、婚約者の茂さんとやらだろう。
「おじさん、ほんと良いことしたよ」
素直に感想を述べると、男は少し照れたような表情を浮かべ、それからすぐにそれを隠そうとしかめっ面をした。
予想以上にいい人だ。これなら、残りもなんとかなるはず。この老夫婦、何が何でも助けたい。
「おじさんは、これからどうするの?」
テレビをただ眺める男に、素朴な疑問を装い、話かける。
「衆議院はどうでもいいとして、一億円貰ったら」
ワンテンポ遅れて、男は視線を動かさずに答える。
「そりゃあ逃げるさ。高飛びってのもいいな。海外行ったことないんだ」
ならば、パスポートも持っていないはずだ。おそらくそれは無理な願いだ。と、心の中だけでこっそり思う。
「簡単に逃げられると思う? 周りマスコミと警官だらけだよ?」
「それなら人質を連れて行けばいい」
期待通りの答え。すぐさま食いつきたい衝動をこらえ、わざと間をとる。
「じゃあ……人質、三人もいらなくない?」
これが今回の作戦だ。
「たくさんいればいるほど、足手まといになるだけだし」
「ああ」
「一人いれば十分なんじゃない?」
男は口をつぐんだ。まずい。ちょっとわざとらしかったかもしれない。けれど。
「俺も、そう思っていたところだ」
「え――?」
意味深な言葉の後、男はまたソファから立ち上がった。今までで一番表情のない顔。それから、床に座り込む老夫婦を見下ろす形で近付く。
男のはいているジーンズがこすれる音と、夫婦が一層怯えて思わず漏らす声。
人質を連れ歩くなら、足腰の弱い老人は向かない。当然、一人いれば十分な人質には、私がなるつもりだが……
懐から拳銃を取り出し、男は老夫婦を見下ろした。
ちょっと待って。まさか、必要ないから、殺す、とか――!
「お前らも行けよ」
そのセリフに、私も老夫婦も呆気にとられた。本当にぽかんと口を開けているお婆さん。お爺さんが念のため確認する。
「……いいんですか?」
「いいから早く行け」
拳銃を突き付けてはいるが、それはどう見てもポーズだ。男はまだ震えている二人を半ば追いやるように部屋から出した。二人がいなくなると、身体の全てを預けるように、男は壁に背をもたれて床に座り込んだ。
「悪いな、お前を残して」
「いいのよ、そんなことは」
もう悪事を働く気は失せたのか、男は虚ろな目で天井を見上げている。部屋に残っているのは犯人と、私だけ。
助けるのはあと一人。
それは私自身ではない。
「ね、一つ訊きたいんだけど」
男は黙っていたが、それを肯定の意味と取る。
「おじさんはどうしてこんな事件を起こそうと思ったの?」
「そんなことか」
投げやりに返事をして、一瞬遠くを見つめ、それから私の方へ向き直る。
「俺はな、ガキの頃から要領が悪くて、よくいじめられたし年下からも馬鹿にされてた。高校出てなんとか就職したが、そこでも上司に怒鳴られてばかり」
自分をさげすむように鼻で笑ってから続ける。
「結局リストラされて、頼りねぇ俺に愛想つかした嫁は他の男とどっか行っちまった。やけになって手をつけた株は買った途端大暴落、とうとう借金は一千万。死んでもいいと思ったが、どうせ死ぬなら世間をあっと言わせてから死にてぇと思った」
「おじさんいくつ?」
「四十六だ」
「え? まだ十分若いじゃん!」
私は男の隣にしゃがみ、顔を覗き込むようにしてにらみつけた。
「あのねぇ、おじさんの年齢でもう人生終わったみたいなこと言う必要ないでしょう。やり直し効くじゃん。奥さんだって仕事だって、また見つければいいでしょ」
「十代のお前に何がわかるんだよ」
「おじさんはそうやって逃げてるだけだよ。今ならまだなんとかなるよ!」
「けど――」
男は何か言いかけて、それから口をつぐむ。
少し言い過ぎたかなとも思ったが、彼はそのまま自分に言い聞かせるように頷きながら呟いた。
「そうか……まだ、なんとかなるのか」
「なるなる。超余裕」
「今から自首すれば……」
「まだ誰も傷つけてないし、おじさんの刑も軽くなるよ」
何か考え込むように腕を組む。数秒沈黙が続き、それから思い切ったように顔を上げ、拳を握った。
「よし……俺は自首する」
「いいね! おじさん偉いよ!」
決意の表情に偽りはなさそうだ。
「ところで、お前の名前は?」
唐突な質問。
「私? スズキミホよ」
「ミホちゃん、ありがとう。俺はなんだかこれからうまくやっていけそうな気がする」
馴れ馴れしく呼ばれたこともいきなり両肩をつかまれたことも、気分を削いでしまうのは避けたいので不問にしておく。愛想笑いで受け流した。
そのとき。
『――こちら現場です。先ほどこの家の住人である夫婦が解放されました! これから警察が犯人逮捕のために突入するということです!』
何の前触れもなく流れたアナウンサーの声に、二人して固まる。男は私の肩から手を離し、代わりにテレビを両側からつかんで画面を凝視する。確かに警察が十数名、この家を取り囲んでいる様子が映し出されている。
「ど……どういうことだ……!」
呆然とする男をよそに、突入の実況中継は続く。
「まだ人質は一人残ってるだろうが! 何考えてんだ警察は!」
しまった。男は見る見るうちに焦燥と怒りを瞳に浮かべた。
「おじさん、自首するんじゃないの?」
「うるさい!」
さっきの希望に満ちた表情は何処へやら、実際に捕まるとなると怖くなったようだ。銃口を私に向け、外の気配を探る。どうやらまだ中までは入ってきていない。
「畜生……こうなったらやっぱりお前を人質にして」
「素直に自首すれば済む話なのに」
投げやりな物言いに聞こえてしまったのかもしれない、男は怒りを露に拳銃を握りなおす。その距離約一メートル。
「次しゃべったら本当に撃つぞ」
サングラスはずり落ちて、血走った片目が覗いた。
「おじさんは私を殺せるような人じゃないよ」
「お前も俺を馬鹿にする気か!」
そんな非道な人間ではない、という意味で言ったのだが、どうやらそんなこともできない臆病者だ、とでも解釈したのだろう。拳銃を持つ手が震えて、カタカタ音が鳴る。
ああダメだ。
この人はもう、私の言葉なんかに耳を貸さない。残念ながら、気弱で人の良いおじさんには戻せない。
私の失敗だろうか。そうかもしれない。申し訳ない。
「俺なんかには撃てないとでも思ってるんだろうが!」
私が助けたかったのは私自身ではなく。
「どいつもこいつも俺を見下しやがって!」
この、本当は気の優しい犯人だったのに。
「そういうわけじゃない!」
「黙れ黙れ黙れ黙れ黙れぇ!」
小刻みに揺れる拳銃は私の心臓に狙いを定めた。いくら射撃の経験がなくたって、これだけ近距離なら身体の何処かしらには当たるだろう。
「おじさん、私は――」
「黙れって言ってるだろ! なんだその目は! ふざけんな!」
慣れない手つきで撃鉄を引き起こす。ガシャン、とどこかで窓ガラスが割れる音がした。それからドアを蹴破る音も。それらが拍車をかけ、男は更に興奮して引き金に指をかける。
「畜生――」
固く目をつむり、歯を食いしばる様は、どうしてもやっぱり滑稽で。
似合わないよ、おじさん。
心の中だけで呟く。あとは、彼が指に力を込めるだけ。
私は、逃げない。
――銃声。
心臓からは大きく外れて、左太ももの辺りを貫通した。撃った反動に驚きながらも、続けてもう一発。今度は右肩に。
男はまぶたを閉じたまま私に向かって撃ち続けた。音を聞きつけて、警察の足音がこちらの部屋へ向かってくる。
最後の銃弾がようやく左胸にあたった。と同時に、ドアが勢い良く開く。警察がなだれ込む。
狂ったように、もう弾の残っていない銃の引き金を引き続ける男は、すぐに取り押さえられた。銃を奪われ手錠を掛けられてもなお、彼は銃を撃つ動作をやめなかった。
私はそんなおじさんにちょっと同情して、それから事件が終わりを迎えようとしていることに安心して――そっと、笑った。
「『調べ学習』は終わったか?」
縦にも横にも大柄な男が、にやにや笑いながらコーヒーの入ったシンプルなマグカップを差し出す。聞かれた青年は、書類から目を離して不機嫌そうな顔を寄越した。
「松川さんって僕を中学生とでも思ってるんですか……あぁ、ありがとうございます。終わりましたよ」
受け取ったコーヒーに口をつけながら、机の上にちらばる資料の一つを手に取った。松川と呼ばれた大柄な男も、似合わないキャラクターものがプリントされたマグカップからちびちびとコーヒーを飲んでいる。
「犯人は前科なし、聞き込みもしましたが地味で目立たず至って平凡な人物。奥さんとは一年前に離婚、子どもはいません。十ヶ月前に退職していますが、おそらくリストラでしょう。それから――」
今度は先ほど見ていた書類に目を向ける。
「警察から発表された、六人目の人質についてですが。人質五人を解放したあと、ニュースで警察に突入されることを知って動転し、思わず最後の人質に全弾発砲したとのこと。銃はリボルバーのコルト・キングコブラ、装弾数は六発です。しかし」
「六人目の人質は存在しない」
青年の言葉を引き継いで、松川は続けた。
「はい、他の人質の証言によると、家に立てこもってから急に態度がおかしくなり、独り言が増えたり理由もなく人質を解放したりし始めたとのことです。人質の人数は五人。三十代の女性とその五歳の息子、二十代の女性、それから家主の六十代の夫婦です」
書類をめくり、次のページに目を走らせる。
「親子は犯人の要求を伝えるために解放。しかし、二十代の女性は結婚式前日だという理由で、夫婦にいたっては何の理由もなく解放です。一応被害者も調べてみましたが、目を引くのは親子の遠縁に業過致死で服役中のものがいること、夫婦の娘がだいぶ前に失踪していること、くらいですね。事件とは関係ないでしょう」
一息ついて、青年は残りのコーヒーを煽るように飲み干した。
「まぁ、なかなかだな。Bをやろう」
にやにや笑いを浮かべながら、松川は青年の集めた資料を読み流す。
「ヤクもやってないようだし、人質の証言から考えても、精神科行きだ。離婚、リストラ、冴えない自分に絶望した結果の心の病、とでもまとめておけばいいだろう」
その線で記事にしろ、という松川に、青年は頷く。
若い雑誌の記者にこういった指導係がつくのが普通なのか、それとも単に松川の面倒見がいいだけなのかはわからない。どちらにしろ、青年が松川を指導者として信頼しているのは間違いないようだ。
「さて、俺も業務終了だ、メシでも行くか」
資料を集めてファイリングしている青年の肩を、大きな手で叩く。重量のせいか、本人は軽く叩いたつもりでも、青年の方は痛そうに小さな悲鳴を上げた。
「今日は何処に連れて行ってくれるんですか?」
肩をさすりながら、青年は自分より一回りも二回りも大きな松川の後について部屋を出た。
私は、二人が完全にいなくなり、周りの人間が主のいなくなったデスクに全く注目していないことを確認してから、机の棚から先ほどのファイルを引っ張り出した。机の引き出しを背にしゃがみこむ。
さっきから二人のすぐ側にいた。全てのやりとりを聞いていた。彼らが気付かなかっただけで。
資料をパラパラとめくる。二人の記者の話によれば、犯人の結末はあまり嬉しくないものだった。私のことは勘違いだったと思い込んで欲しいが、あのときの状況を考えると難しいだろう。
ふと、一枚の書類に目がとまる。人質となっていた老夫婦に関するものだ。家の所在地とその周辺地図、夫婦それぞれの経歴、事情聴取の内容、それから。
いつの間にか、こんなに時間が過ぎていた。
もう三十年前の新聞記事のコピー。
今月四日、都内の私立高校に通う鈴木美保さん(16)が、「図書館へ行く」と家を出たきり消息を絶った。近隣でも家族仲が良いことで知られており、家族や友人とも特に衝突などはなかったようだ。家出とは考えにくいため、警察は何らかの事件に巻き込まれたものとして捜索を続けている。
今の私と寸分違わぬ小さな顔写真が、その記事の右側に載っていた。
お父さんお母さんには、まだまだ長生きして欲しい。
END
少女は幽霊で、犯人の男にしか見えていなかった。男は少女を撃ったが、少女は既に死んでいるので、殺人の罪にはならなかった。
総合点:6票 トリック:1票 物語:5票
最初最後
トリック部門なさ
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「売り出せと言いたくなる解説も見事(読むの10分くらいかかりましたw)ですが、自分はトリック部門で推薦。シンプルな叙述トリックですがとても上手く機能しています。」
2015年02月22日01時
最初最後