「いってきます」
そう言って出ていったきり、ついに帰らなかった父。
それから何十年と経って、在りし日の姿を留めた父の死体を見つけた私は、
自分はまだ父を越えるには至っていないのだと思い知った。
どういうことだろうか?
17年10月20日 23:02
【ウミガメのスープ】【批評OK】
[az]
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「いってきます」
偉大な冒険家であった父は、しかし、どれほど危険な旅への出発の朝であっても、家を出るときはいつもただそれだけしか言わなかった。それがまるで近所の河川敷に散歩にでも行くような調子なものだから、送り出す私も何だか、父がその日の夕方には焼き鳥でも提げて帰ってくるのではないかと、そんな気がしていたものだ。
その日――前人未到の高峰・テストドゥマリナ登頂への挑戦に発つ朝もそうだった。父が帰ってこないなど考えもしなかった――そして、にもかかわらず、父は帰ってこなかった。山頂付近で消息を絶ち、それきりだということだ。
山頂付近は酷い吹雪に見舞われ、生存はおろか、遺体の発見も絶望的――父の仲間からそう伝えられても、私は一向に実感が湧かなかった。どうせ、帰宅途中にふらっと入った居酒屋で飲みすぎてしばらく寝ていたとか、そんなのに違いない。すぐに顔を赤くして帰ってくるだろう。そう思っていた。
だが、一週間経ち、一ヵ月が経ち、それでも父は帰ってこなかった。私はついに、事実を受け入れざるを得なくなった。父は死んだ――その遺体は今、氷に閉ざされた山のどこかに眠っている。
父の死を受け入れた日。私は父のような冒険家を目指すと決めた。
父の果たせなかった登頂を果たし、父の遺体を見つけ出す。父を超える冒険家となる――それが私の、人生の目標となったのだ。
無論、一筋縄ではいかなかい。コツコツと働いて資金を貯め、過酷なトレーニングを重ね、いくつもの山を登って経験を積んだ。幸いというべきか、偉大な冒険家の息子という肩書は何かと役に立ち、多くの人々の支援を得ることができた。
そうして準備を重ね、初めて挑んだテストドゥマリナ登頂は、7合目付近で高山病を発症しリタイアするという散々な結果に終わる。それから2年後、さらなるトレーニングの末に挑んだ2回目は、大規模な雪崩に巻き込まれ、あわや命を落とすところだった。
2度目の失敗の後、私は次なる挑戦を躊躇した。2度目の挑戦の少し前、私は結婚し、子どももできていた――。
母は一言も弱音を吐かなかったが、父亡き後の暮らしが決して楽なものではなかったことを、私はよく知っている。雪崩に巻き込まれたとき、自分はここで死ぬのだと思った。実際、もう少し運が悪ければ、確実に死んでいた。紙一重だったのだ。妻や子どもを残して、死ぬことなどできない。登山はこれきりにするべきだと思い始めていた。
それでも結局、私は三度、この魔の山に戻ってきた。妻の後押しがあったことも大きいが、やはり私には父の血が流れているということなのだろう。未踏の高山を制覇する、父の成し得なかった偉業を達成する――その夢に、その誘惑に、抗うことができなかったというのが実際である。
そうやって臨んだ3度目の登頂は、慣れもあるのだろうが、なんだか不気味なくらいに順調に進んだ。天候にも恵まれ、大きなトラブルもなく登り続け……そして私はついに、テストドゥマリナの山頂に立ったのだ。
――・――・――・――・――
頂に立った時、最初に感じたのは喜びや達成感ではなく、意外にも虚脱感だった。ずっと目指してきた場所に到達し、目標を失ったからだろうか。身体の半分がごっそり削ぎ落とされたような、そんな喪失感に苛まれ、私はただ茫然と、その場に立ち尽くしていた。
山頂から壮大な景色を見下ろしても、どこか虚しさが募る。ただ、父はこの景色を見ることは叶わなかったのかということばかり考えていた。
ふと。
山頂から少し下った小さな崖下の窪みに、この場に似つかわしくない色が見えた。赤。雪と氷と岩だけで作られたモノクロの世界で、その色は明らかに異質だ。不審に思い、慎重に崖下へと降りて、赤色の正体を確認する。
それは死体だった。赤色のウェアを着た登山者の死体がそこにあった。
その真っ赤なウェアに、私は確かに見覚えがあった。言うまでもない――それはかつて父が着ていたウェアだ。あらゆる山の登頂達成を記念して撮った写真の中で、父はいつもこのウェアを着ていた。彼の偉業を称える銀世界の写真の中に、常に彩りを与えていた赤だった。
はやる気持ちを抑え、私はその死体をよく調べてみた。極寒の環境で死体はほとんどミイラ化しており、顔はもはや確認できない。しかし、私はすぐに、これは紛れもなく父だと結論付けることができた。死体の背負う灰色のリュックサック、それに付けられた木彫りの鳥のキーホルダーは、私がかつてお守りとして父に贈ったものだったからだ。
いつか見た姿のままの父が、目の前に横たわっていた。
父の死体を前に、私は思わず笑みがこぼれた。
――父は、ここまで登ってきていたのだ。
この山頂まで。私よりもずっと先に、ここにたどり着いていた。最期にここからの景色を見て、息絶えたのだ。ここに至るまで父に何があったのかはもはやわからない。それでも、父はこの地に足跡を確かに残していたのだ。
私は急に、喪失感など感じていた自分が恥ずかしくなってきた。全身の血が煮え立つようだった。三度目の挑戦にしてようやくたどり着いた私と違って、父はたった一度のチャレンジで見事に登頂を果たしていたのだ。
敵わないな、と小さく呟いた。
私はまだ、父を越えてなどいない。ずっと追いかけてきた背中に、今ようやく、追いついただけなのだ。
そうだ、私にはまだ成すべきことがある。父がついに成し得なかったこと――家族のもとへ帰ること。
この山を下りよう。下りて、愛する家族に「ただいま」を言うのだ。そのときこそ、私はようやく父を超えることができる。父の遺体に手を合わせると、私はまた歩き出した。
【要約】
登山家の父を持ち、自身も登山家である私は、父が消息を絶った山への登頂を達成した。
父が成し得なかったことを成し遂げたつもりになっていたが、山頂に父の遺体があったことで、父もまた登頂は達成していたことを知り、彼を越えたと言うには下山して無事に帰宅しなければならないと思った。
総合点:3票 納得感:1票 伏線・洗練さ:1票 物語:1票
納得感部門ゴトーレーベル【
投票一覧】
「父を越えるために必要な条件。この発想はさすが秀逸です。舞台の設定はこれもさすがの一言。BS問題でも手抜きがない名品です。」
2017年10月26日00時
伏線・洗練さ部門からす山【
投票一覧】
「説明不要の完成度の解説。問題文の切り取り方も見事です。BSにしてかなりの洗練度です。」
2017年10月21日19時
物語部門からす山【
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「BSでありながら、一人の人間の半生を描き切った見事な物語。妥協を許さないazさんらしいです。素晴らしいです。(azさん、100問目おめでとうございます!)」
2017年10月21日19時