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こころ(問題ページ)
息子が妻の顔に足を向けて寝ているのを見て、男は安堵した。
何故だろう?
何故だろう?
16年03月06日 22:32
【ウミガメのスープ】【批評OK】 [牛削り]
【ウミガメのスープ】【批評OK】 [牛削り]
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子供がほしい、と、妻は結婚当初から言っていた。
男がそれに対し曖昧な態度で応じ続けた感情は、とても一言で説明できるようなものではない。
それは怖いというのと少し似ていた。
命というものを、男は考える。
命を思うとき、男の中では、それは闇の中で蠢く複雑な構造として想起される。
観測不可能な主観を内に宿していて、そして言うまでもなく、何よりも重い。
自分の子ということであれば、この世に発生した瞬間に、自分はその蠢く構造の父親として決定付けられる。
それがどういうことなのか、男は具体的にイメージできなかった。そのとき自分がどんな気持ちになるのかも、よくわからなかった。
そんな不確かな立場のまま、命という途轍もないものを、自分のほんのささいな行為ひとつで作ってしまっていいものだろうか。
結果に対し、原因や、結果を受け入れるべき人間の覚悟が軽すぎやしないだろうか。
これを六倍くらいまどろっこしくしたものが、男の抱えていた感情であった。
当時、男は自分の胸中を冷静に観察できずにいた。仮にできたとしても、泣かせるとわかっていながら妻にそれを語るのは憚られただろう。
妻に対する曖昧な態度は、こうした理由による。
では、男はいかにして、子供を作ろうという決断にいたったのか。
手に余る感情に苛まれた男は、周囲の人々と話をした。既に子を持っている先輩と、子供を欲しがっている友人と、世話好きな飲み屋のオヤジと、父親と……。
そしていろいろなことを考えた。近くにありながら、今まで気にもしなかった問題、例えば、母は自分や弟を産むとき、どんな気持ちだったのか、ということなどを。
命というものの不可解さは相変わらずありながら、男はそうした経験を経て、ひとつの小さな結論を得た。
もしも子供が生まれたら──。
妻はその小さな存在を抱き上げて、そして、今まで見たこともないくらい幸せそうに、笑うんだろう。
きっと薄いレースのカーテンが掛かった窓際で、祖父母や両親や妻の愛する人たちに祝福されて、妻は笑っている。
その光景がイメージできたとき、男は、それを見たいと素直に思えた。
他の多くの考えなければならない問題は棚上げにしても、自分は妻の、その笑顔が見たい。
相性に恵まれてか、男が決断してから半年以内には、検査薬は陽性を示した。
妻はたいそう喜んだ。妻が喜んだのを見て、男も喜んだ。
「男と女、どっちだろうね」
まだ膨らんでもいない腹をさすりながらはしゃぐ妻を見て、男は、自分の見た未来は間違っていなかったと改めて思った。
「男の子がいいなあ。あ、でも女の子もいいなあ」
気付けば自分もそんなことを言っていた。
「どっちなの」
妻は笑っていた。
「このままだと、逆子になるかもしれないって」
そう診断されたのは、六ヶ月目くらいだったか。妻の腹はそれまで通りの生活が不便になるくらいまで大きくなっていた。
中の子は、頭が下ではなく、水平方向を向いていた。
逆子の可能性はまだそこまで大きくはないようだが、もしこのまま胎児が横を向いた状態で出産期を迎えれば、帝王切開は避けられないという。
妻は少し焦っていて、同調する男も、焦っていた。
逆子体操をする時期ではまだない。できるのは祈ることのみであった。
八ヶ月目に入る頃、妻は実家に帰っていった。里帰り出産の準備である。
広すぎる部屋で、男は妻と子の安否をいつも案じていた。
二月の終わりの週末、男は妻の実家を訪れた。妻は世間話もそこそこに、先日の検診の際のエコー写真を男に見せた。
4Dの、想像以上にリアルな画像だった。
「見て、ほら、これが足」
嬉々として語る妻の指先を見ると、胎児の足は上を向いていた。
逆子の危険を脱したのである。ひとまずは。
男は安堵した。これで、妻は出産までの期間を少しは安心して過ごすことができる。
男は妻の腹を撫でた。時折力強い反発を感じるまでになっていた。
「そろそろ名前、決めなきゃね」
妻のその言葉に、男はどきっとした。
命名は男に一任されているのだ。まだ決められる目処は立っていない。
「そ、そうだね」
我が子の性別は男だと判明していた。
名前を付けるという場面に直面し、男は子供への願いが次々と湧き出てくるのを感じていた。
こんな風に育ってほしい、こんな風に呼ばれてほしい。
命の複雑さが云々言っていた頃には想像もできなかった感情だ。
妻と一緒に、我が子にまつわる様々な気持ちを経験して、少しずつ変化してきたのだろう。
男はイメージする。例えば、こんな光景を。
少年がグローブをつけて原っぱに立っている。
対面にいる男がボールを高く掲げる。
「○○、いくぞ」
妻はにこやかに二人を応援している。
いつの頃からか、男の想像する未来の光景には、男自身の姿があるのだった。
父になるのだな、心も。
その男、牛削りはそう思った。
生まれてくるのは、四月。
彼の地元では桜の咲き始める季節である。
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その5・こころ〜」 完
【要約解説】
生まれてくる我が子の足が上を向いており、逆子の危険を脱したとわかって安堵した。
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その1・あくしゅ〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12288
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その2・せなか〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12440
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その3・ばいばい〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12471
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その4・いつまでも好きな人〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12472
男がそれに対し曖昧な態度で応じ続けた感情は、とても一言で説明できるようなものではない。
それは怖いというのと少し似ていた。
命というものを、男は考える。
命を思うとき、男の中では、それは闇の中で蠢く複雑な構造として想起される。
観測不可能な主観を内に宿していて、そして言うまでもなく、何よりも重い。
自分の子ということであれば、この世に発生した瞬間に、自分はその蠢く構造の父親として決定付けられる。
それがどういうことなのか、男は具体的にイメージできなかった。そのとき自分がどんな気持ちになるのかも、よくわからなかった。
そんな不確かな立場のまま、命という途轍もないものを、自分のほんのささいな行為ひとつで作ってしまっていいものだろうか。
結果に対し、原因や、結果を受け入れるべき人間の覚悟が軽すぎやしないだろうか。
これを六倍くらいまどろっこしくしたものが、男の抱えていた感情であった。
当時、男は自分の胸中を冷静に観察できずにいた。仮にできたとしても、泣かせるとわかっていながら妻にそれを語るのは憚られただろう。
妻に対する曖昧な態度は、こうした理由による。
では、男はいかにして、子供を作ろうという決断にいたったのか。
手に余る感情に苛まれた男は、周囲の人々と話をした。既に子を持っている先輩と、子供を欲しがっている友人と、世話好きな飲み屋のオヤジと、父親と……。
そしていろいろなことを考えた。近くにありながら、今まで気にもしなかった問題、例えば、母は自分や弟を産むとき、どんな気持ちだったのか、ということなどを。
命というものの不可解さは相変わらずありながら、男はそうした経験を経て、ひとつの小さな結論を得た。
もしも子供が生まれたら──。
妻はその小さな存在を抱き上げて、そして、今まで見たこともないくらい幸せそうに、笑うんだろう。
きっと薄いレースのカーテンが掛かった窓際で、祖父母や両親や妻の愛する人たちに祝福されて、妻は笑っている。
その光景がイメージできたとき、男は、それを見たいと素直に思えた。
他の多くの考えなければならない問題は棚上げにしても、自分は妻の、その笑顔が見たい。
相性に恵まれてか、男が決断してから半年以内には、検査薬は陽性を示した。
妻はたいそう喜んだ。妻が喜んだのを見て、男も喜んだ。
「男と女、どっちだろうね」
まだ膨らんでもいない腹をさすりながらはしゃぐ妻を見て、男は、自分の見た未来は間違っていなかったと改めて思った。
「男の子がいいなあ。あ、でも女の子もいいなあ」
気付けば自分もそんなことを言っていた。
「どっちなの」
妻は笑っていた。
「このままだと、逆子になるかもしれないって」
そう診断されたのは、六ヶ月目くらいだったか。妻の腹はそれまで通りの生活が不便になるくらいまで大きくなっていた。
中の子は、頭が下ではなく、水平方向を向いていた。
逆子の可能性はまだそこまで大きくはないようだが、もしこのまま胎児が横を向いた状態で出産期を迎えれば、帝王切開は避けられないという。
妻は少し焦っていて、同調する男も、焦っていた。
逆子体操をする時期ではまだない。できるのは祈ることのみであった。
八ヶ月目に入る頃、妻は実家に帰っていった。里帰り出産の準備である。
広すぎる部屋で、男は妻と子の安否をいつも案じていた。
二月の終わりの週末、男は妻の実家を訪れた。妻は世間話もそこそこに、先日の検診の際のエコー写真を男に見せた。
4Dの、想像以上にリアルな画像だった。
「見て、ほら、これが足」
嬉々として語る妻の指先を見ると、胎児の足は上を向いていた。
逆子の危険を脱したのである。ひとまずは。
男は安堵した。これで、妻は出産までの期間を少しは安心して過ごすことができる。
男は妻の腹を撫でた。時折力強い反発を感じるまでになっていた。
「そろそろ名前、決めなきゃね」
妻のその言葉に、男はどきっとした。
命名は男に一任されているのだ。まだ決められる目処は立っていない。
「そ、そうだね」
我が子の性別は男だと判明していた。
名前を付けるという場面に直面し、男は子供への願いが次々と湧き出てくるのを感じていた。
こんな風に育ってほしい、こんな風に呼ばれてほしい。
命の複雑さが云々言っていた頃には想像もできなかった感情だ。
妻と一緒に、我が子にまつわる様々な気持ちを経験して、少しずつ変化してきたのだろう。
男はイメージする。例えば、こんな光景を。
少年がグローブをつけて原っぱに立っている。
対面にいる男がボールを高く掲げる。
「○○、いくぞ」
妻はにこやかに二人を応援している。
いつの頃からか、男の想像する未来の光景には、男自身の姿があるのだった。
父になるのだな、心も。
その男、牛削りはそう思った。
生まれてくるのは、四月。
彼の地元では桜の咲き始める季節である。
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その5・こころ〜」 完
【要約解説】
生まれてくる我が子の足が上を向いており、逆子の危険を脱したとわかって安堵した。
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その1・あくしゅ〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12288
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その2・せなか〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12440
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その3・ばいばい〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12471
「うしけずりのはつこいのはなし 〜その4・いつまでも好きな人〜」
http://sui-hei.net/mondai/show/12472
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