笑う、にへこ

「…にへぇ～。」



にへこは僕の目の前で、自らの喉を引き裂いた。



サヨナラではなく、嬉しそうに笑って逝った。



…僕の恋人だったにへこは、いつも笑っていた。



正しくは、表情筋が硬直して笑顔以外の表情が出来ず、言葉も上手く話せないのだ。



そしていつも謝っていた。



彼女は、致命的なドジっ娘だった。



数多くの仕事やチャンスを、僕の変わりに潰していった。



翌日会議使うデータをパソコンごと壊したり、絶対に遅刻できない会議に遅刻しないようにセットしていた目覚ましから懐中電灯を使うために電池を抜いてしまったり、ＵＳＢケーブルを天地逆に差し込んでしまい僕の仕事用のスマホをぶっ壊したり。



…結果として、僕は会社をクビになった。



その話をした時、彼女は笑顔のまま大粒の涙を溢していた。



翌朝、手紙を渡された。



＜今まで迷惑をかけてごめんなさい。だから、せめて迷惑がかからないように、さようならします。＞



明らかに動揺してゆがみきった上に、涙でにじんだ文字に一通り目を通した瞬間、彼女の嬉しそうな笑い声。



「にへぇ～♪」



目の前が真紅に染まる。



彼女は自分の喉を包丁で切り裂いていた。



「にへこ、にへこ！？にへこおおおおおおおおおおおっ！！！！」





…



葬儀の数日後、無気力なまま彼は街の中をうろついていた。



不意に、彼女が使っていたシャンプーのような香りがした。



「にへぇ～♪」

「くっ付きすぎだよアオ」

「じゃあ私もにへぇ～♪」

「シオリまで」



…通りすがりの親子だった。



少しして、また聞こえてきた。



＜にへぇ、にへぇ！おなじみにへぇ！＞



にへぇ！？にへこ！？



＜二瓶の肉まん、美味しい肉まん！＞



…該当ラジオのＣＭか。



また少しして、後姿がそっくりな女の子を見かけて、当然ながら別人だった。



たった一時間で、僕は彼女を失ったことの大きさに気付いた。



膝から崩れ、跪くようにして泣いた。



まともに泣いていなかった僕は、泣いて泣いて、泣いた。



彼女を幸福にしてあげられなかった自分を、責め立てて泣いた。



にへこは僕の、全てだった。



＊目の前で笑いながら自殺した彼女がフラッシュバックしたから。